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Mar 23
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小松左京賞に小説を投稿したと聞いた時、 
伊藤先輩を知っている誰もが、いよいよやった、と思った。 
 
死の恐怖の前には、フィクションなど無意味だと言った 
あの先輩をこうまで突き動かしたのは何だったのか、 
誰にもその心情は分からない 
私たちはただ、憶測するだけでも言葉に詰まる。 
 
しかし、先輩の心に常に諦観も共にあった。 
 
最終的に小松左京賞に落選したと聞いた時、漫研の皆でちょっとした飲み会を開いて 
とにかく折角書いた文章が没になるのは勿体無い。webで無料公開するなり 
同人誌で出すなりして少しでも多くの人に読んで貰おう、表紙挿絵装丁なら 
みんなで全面的に協力するから、と提案してみたものの 
 
「落ちたものは落ちたものです、やはり充分なレベルまで達していなかったという事でしょう。 
とにかく頑張るならまた次作でということになります」 
と、気の乗らないことを呟くばかりで、 
 
この後、円城塔さんが励まして一緒に早川書房に原稿を送る事を提案してくれなければ、 
自分は多分、作家としてデビューはしていなかっただろう、と先輩本人も 
正直に認めている。 
 
 
「いつも誰か任せなんです、僕は」 
照れくさそうに笑っている先輩の顔は今でもすぐに思い浮かべる事が出来る。 
先輩が今こうして残した功績は沢山の恩人の手助けがあってこそであるのは 
間違いない 
 
私はといえば、10年近く経って、ようやく先輩が作家になって同じ立場に立ってくれた事が嬉しくて嬉しくて一緒に売れるラノベを書こう、大ヒットエロゲー を作ろうなどといいつつも 
ほぼ実現不可能、やるだけ無駄のしょうも無い企画を出し合ってお互いにバカ笑いしてたこの時期の先輩の事が一番印象に残っている。 
 
 
そして、先輩は、まだ見ぬ傑作の執筆の最中に、亡くなった。 
執筆どころか、身動きも困難になった頃、先輩は見舞いに訪れた同期の親友に 
「自分はこういう形で作家になった事に、いくばくかの後悔がある」と 
語ったようだ、後悔とは何か、と尋ねてみると、 
「自分自身でしっかりと、作家になるという意思をもって道を選ばなかった事」 
であるという。 
 
星雲賞の授賞式での、先輩のお母さんの話によると先輩は、検査で 
両肺に転移が見つかった時「両足がなくなってもいいから、僕はあと、20年、30年生きたい。書きたいことがまだいっぱいある」と言ったらしい。 
 
その言葉を聞いて、どうしようもなく胸が締め付けられた。 
 
書き始めるのが遅かったのだとか何だとか、結果的なことだけは 
後からでもいくらでも言えるだろう。 
 
ただし、「虐殺器官」「METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS」「ハーモニー」 
いずれも、あの時の、あの先輩にしか書くことの出来なかった傑作である事に間違いない。 
特に「ハーモニー」の執筆時にはまた投薬の影響で、感情的なものがまた全て遠ざかって 
しまったために、フィクショナルな人間を動かす事が出来なくなったと、苦しんでいた事も 
作品の内容に確実に影響を与えていると思う。 
 
最後に私が先輩をお見舞いに行った時、先輩は私に口を開くのもやっとの状態で 
「篠房君は、覚悟をした事とか、ありますか?」 と私に聞いてきた。 
 
何を答えようととそれは、嘘偽りでしかないことを思い知らされる、恐ろしい問いかけだった。 
未だにそれに対しては上手く答える事が出来ないし、 
これから先に答えが見つかるとも思えない。 
 
ただ、粛々と逡巡して生きるのみ、だ。 
篠房六郎日記 (via katoyuu) (via nagas) (via tsupo) (via lunaryue) (via saitamanodoruji) (via ichimonji) (via pedalfar) (via jacony) (via petapeta) (via junt74) (via fukumatsu)






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